音羽信子 おとわのぶこ 新藤兼人 しんどうかねと 結婚
1994年に亡くなった女優の音羽信子(おとわのぶこ)。
スゲー人ですよ。
音羽信子のプロフィール(超おおまか)
・1924年(大正13年)鳥取生まれ。
・宝塚に入団し、淡島千景と人気を二分するが娘役に限界を感じて退団し大映に入社。
・「百万ドルのえくぼ」のキャッチフレーズで売り出されます。最初は清純派でした。
・新藤兼人(しんどうかねと)監督の「愛妻物語」で好演し、スターに。
・1952年に新藤兼人監督が設立した「近代映画協会」の第1回自主製作映画「原爆の子」に
大映を退社してまで出演。行こうずっと新藤作品に主演し続けます。
原爆の被害から復興中の広島で撮影された。つまりこの舞台の広島はセットでも何でもない。
・以降は新藤兼人の「愛人」の立場で、二人三脚の映画作りを続けます。
「知恵遅れ」の女性を怪演。このあたりから清以前の純派とはほど遠い、強烈な役を演じ始めます。
小舟が遭難し、極限状態の人々。音羽さんの役は強烈。
セリフが一切ない実験的作品。まちがいなく新藤兼人監督の最高傑作です。
「けだもの」としか表現しようのない母親。
新藤兼人の奥さんが死去し、1978年にはれて夫婦となっています。新藤監督の前妻の子は祝福していたそうです。
遺作。この映画の撮影が終わるのを待つように肝硬変で死去しました。
特に中期のリアリズムのかたまりのような演技がスゴイです。最近の「お嬢様女優」に見せてやりたい。
スゲー人ですよ。
音羽信子のプロフィール(超おおまか)
・1924年(大正13年)鳥取生まれ。
・宝塚に入団し、淡島千景と人気を二分するが娘役に限界を感じて退団し大映に入社。
・「百万ドルのえくぼ」のキャッチフレーズで売り出されます。最初は清純派でした。
・新藤兼人(しんどうかねと)監督の「愛妻物語」で好演し、スターに。
・1952年に新藤兼人監督が設立した「近代映画協会」の第1回自主製作映画「原爆の子」に
大映を退社してまで出演。行こうずっと新藤作品に主演し続けます。
原爆の被害から復興中の広島で撮影された。つまりこの舞台の広島はセットでも何でもない。
・以降は新藤兼人の「愛人」の立場で、二人三脚の映画作りを続けます。
「知恵遅れ」の女性を怪演。このあたりから清以前の純派とはほど遠い、強烈な役を演じ始めます。
小舟が遭難し、極限状態の人々。音羽さんの役は強烈。
セリフが一切ない実験的作品。まちがいなく新藤兼人監督の最高傑作です。
「けだもの」としか表現しようのない母親。
新藤兼人の奥さんが死去し、1978年にはれて夫婦となっています。新藤監督の前妻の子は祝福していたそうです。
遺作。この映画の撮影が終わるのを待つように肝硬変で死去しました。
特に中期のリアリズムのかたまりのような演技がスゴイです。最近の「お嬢様女優」に見せてやりたい。